土呂久公害の教訓を世界で活かす活動がはじまっています のどかな集落を襲った悲劇
 土呂久は、高千穂町にある山あいの集落。江戸時代の終わり頃から銀山で栄え、1920(大正9)年以降、採掘した鉱石から亜砒酸を製造する「亜砒焼き」が始まりました。亜砒焼きをすると、猛毒である砒素を含んだ煙が大量に発生。この煙が集落に流れたことで、土呂久の豊かな自然はむしばまれ、やがて住民の健康にも影響が出始めます。   戦後の焙焼炉
3度の節目を経て、閉山
 亜砒焼きが始まった後の土呂久鉱山の歴史は大きく3つの時期にわかれます。1920(大正9)年から1933(昭和8)年は、人力による小規模経営。1933年から1941(昭和16)年までは錫を主産物に、亜砒酸の製造も本格化しました。その後はしばらく操業中断。1955(昭和30)年に再開されましたが、1958(昭和33)年に坑道「大切坑」で出水事故が発生。1962(昭和37)年、鉱山は閉山しました。   猛毒「亜砒酸」とは?
民家のそばで亜砒酸を生産
 亜砒焼きは、土呂久の中心部、民家のすぐ近くで行われていました。そのため住民たちは、激しい咳に悩まされるようになります。そして悲劇は起こりました。亜砒焼窯のそばに住んでいた佐藤喜右衛門さん一家7人のうち、5人が1930(昭和5)年から翌年にかけて次々に死亡。残された2人の子どもも若くして亡くなってしまいます。   佐藤喜右衛門さんの家
早くから“中毒”との指摘も
 1925(大正14)年、地元の獣医師が作成した報告書には、植物の成長不良や椎茸の不作、ミツバチの死滅といった被害が記されています。さらに鉱山労働者については、「声が枯れて顔面蒼白、目は異常に充血している」と報告。死んだ牛の解剖書には、「目がくぼみ、腹のまわりはふくれあがり、毛は簡単に抜け、はなはだしい栄養失調」と記載し、「連続する有害物の中毒ではないか」と、疑いの目を向けています。   届かなかった住民の訴え
    

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